ドクターブロナーの歴史 ラベルに込められた想い

HISTORY

ドクターブロナーの歴史

ラベルに込められた想い

ドクターブロナーの製品ラベルには、創設者エマニュエル・ブロナーの想いが込められています。それは自身の悲劇からうまれた、世界平和と宗教や民族の差別のない結束を唱えるオールワンビジョン。ドクターブロナーは1948の創業以来、オールワンビジョンを企業理念とし、エコロジカルで高品質なソープづくりに取り組んでいます。2000には全米売上No.1*のナチュラルソープへと成長、2018には70周年記念と5世代にわたるソープづくりの160周年を迎えました。
*SPINS社調べ 2000~2023

ドクターブロナーは、ドイツのユダヤ人街のハイルブロナー家が営む石けんメーカーでソープづくりを始める。

1858

ソープづくりの始まり

ドクターブロナーのソープづくりは、ドイツのユダヤ人街にある、ハイルブロナー家が営む石けんメーカーとして始まる。

ドクターブロナー前身、ハイルブロナー家の営む石けんメーカーが世界発のリキッドソープを発明。

1880 – 1890年代

世界初のリキッドソープを発明

石けんメーカーのハイルブロナー家は、世界初のカスチールリキッドソープを発明し、ドイツ全土の公衆トイレで使われ始める。さらに「マダフォーム」の名でソープバーの販売を始める。

ドクターブロナーの創設者である、エマニュエル・ブロナーとその家族

1908

創設者エマニュエル・ブロナーの誕生

エマニュエル・ハイルブロナーがハイルブロナー家の3代目として誕生。

エマニュエル・ハイルブロナーは船でアメリカに渡る。

1920年代

ソープ製造技術の取得と
アメリカへの旅立ち

エマニュエル・ハイルブロナーは、南ドイツにある他家の石けんメーカーで修行をはじめ、ギルド(同業種組合)制度の専門学校でソープづくりの認定を受ける。さらに、大学で科学の学位を取得する。
エマニュエルの個性的な性格やより近代的なソープづくりの考えが父や叔父との衝突を招き、21歳でアメリカに渡る。そして、シカゴとミルウォーキーの石けんメーカーでコンサルタントとして勤務し、いくつかの特許を取得する。

1940年代のエマニュエル・ブロナーとその仲間たち

1930 – 1940年代

強制収容所での両親の死

ナチスがハイルブロナー家の石けん工場を国有化する。ヒトラーの台頭と世界大戦の開戦を受け、エマニュエル・ハイルブロナーは両親をドイツから移住させようと試みるが間に合わず、両親はアウシュビッツとテレージエンシュタッドに強制送還され、殺されてしまう。
エマニュエル・ハイルブロナーは、ヒトラーが台頭する1930年代から、姓を「ブロナー」とする。また、1940年代には大学の学位から「ドクターブロナー」と名乗るようになる。その専心や膨大な科学の知識から、その名に誰も異議は唱えなかった。

オールワンビジョンを掲げるプラカード

1940年代

オールワンビジョンの誕生

両親の殺害と世界大戦が、後のドクターブロナーの企業理念となる、世界平和と宗教や民族の差別のない結束を唱える「オールワンビジョン」へと導いた。

エマニュエル・ブロナーが収容されたエルジン州立精神病院

1947

再びの悲劇

エマニュエル・ブロナーの強い主張から、エルジン州立精神病院に逮捕、収容され、ショック療法を受けることとなる。その後脱出をはかり、ヒッチハイクをしてロサンゼルスに辿り着く。この時のショック療法が1960年代の視力低下と失明の原因になったとし、この療法を彼は非難した。

ドクターブロナー社設立当時の様子

1948

ドクターブロナー
マジックソープの誕生

YMCAの屋上で鳩と寝泊まりする日々を過ごした後、エマニュエル・ブロナーはホテルの一室でソープづくりを始める。1948、アメリカのカルフォルニアにドクターブロナーを設立。ペパーミントのリキッドソープと健康食品調味料の製造を始める。

ドクターブロナーの創業者エマニュエル・ブロナーと、オールワンビジョンが表記されたラベル

1950年代

ラベルに込めた想い

エマニュエル・ブロナーは、世界平和と宗教や民族の差別のない結束を唱えるオールワンビジョンについて講演をしながら、ソープを配布する。多くの人々が話を聞かずにソープだけを持ち帰ることに気が付き、ボトルのラベルに彼の哲学を表記して平和を呼びかけた。このことによって、マジックソープのラベルが誕生した。

1960年代から70年代のドクターブロナーのマジックソープ

1960 – 1970年代

時代を象徴するソープに

1960年代から1970年代にかけてヒッピーたちの平和運動が起こり、エコロジカルな品質とボトルの思想が若者の共感を呼ぶ。さらに自然食品店やオーガニック文化の流行を追い風に、ドクターブロナーのマジックソープは、アメリカ全土へ広がった。1960年代後半には時代を象徴するソープとなった。

エマニュエル・ブロナーの息子ジム。科学コンサルティング会社であるブロナーケミカルアンドテクニカルコンサルティングを立ち上げ、現在アメリカ全土で森林火災や建造物の火災時に使用されている消火器の泡沫原料を開発した。

1980年代

マジックソープの広がり

ドクターブロナーのソープがアメリカ全土のナチュラルスーパーや主流な市場に広がり、多くの人々から支持を得る。またエマニュエル・ブロナーの息子ラルフはラベルのメッセージを洗練するため、エマニュエルと共に働く。もうひとりの息子ジムは科学コンサルティング会社であるブロナーケミカルアンドテクニカルコンサルティングを立ち上げ、現在アメリカ全土で森林火災や建造物の火災時に使用されている消火器の泡沫原料を開発する。

ドクターブロナー マジックソープのエマニュエル・ブロナー

1997

エマニュエル・ブロナー逝去

エマニュエル・ブロナーがパーキンソン病によって亡くなる。

ドクターブロナーのデイビット、トゥルーディ、マイケル

1998 – 2000

ジム・ブロナー逝去と家族の絆

ジム・ブロナーが、癌によって亡くなる。ジムの息子デイビットは母トゥルーディと共にジムの遺志を受け継ぎ、サンディエゴのボーイズ&ガールズクラブ(青少向けに放課後プログラムを提供する米国の非営利団体)に140万ドル相当、1,000エーカーの原野を寄付する。そして、デイビットはハーバード大学卒業後、トゥルーディと叔父ラルフと共に、ドクターブロナーの経営を引き継ぐ。2000には、デイビットの弟マイケルが入社し、世界中にドクターブロナー製品の輸出を開始する。

ドクターブロナーはUSDAの全米オーガニックプログラムに認定されたパーソナルケア企業の最大手となる。

2003

受け継がれるオールワンビジョン

ドクターブロナーはUSDAの全米オーガニックプログラムに認定されたパーソナルケア企業の最大手となる。また先駆的にマジックソープのボトルを100%リサイクルプラスチックでつくり始める。

、革新的な会社制度を制定する。管理職の給与を工場の最低賃金労働者の5倍までに抑え、全ての従業員の健康保険を優先医療給付機構プランに拡充。さらに会社運営に必要のない全ての利益は様々なチャリティーなどに寄付をすることを決める。

ドクターブロナーがフェアトレードを行う、系列会社セレンディポールの工場

2006

フェアトレードプロジェクトの開始

パレスチナやイスラエル産のオリーブ油を含む主要な原材料を、フェアトレード認定のもので調達する、包括的なプロジェクトを開始する。

ドクターブロナーの系列会社セレンディポールのココナッツオイル

2011

新たなフェアトレードの広がり

ドクターブロナーは、系列会社でフェアトレードココナッツサプライヤーのセレンディポール(スリランカ)と協力し、フェアトレードのホワイトカーネルココナッツオイルとホールカーネルオイルを発売開始する。また、姉妹会社のDr. Bronner’s Germany(DBG)がデュッセルドルフにオープンし、ヨーロッパ全土に販売を開始した。

ドクターブロナーの系列会社セレンディポールのココナッツオイル

2012 – 2013

遺伝子組み換え食品への取り組み

ドクターブロナーは、遺伝子組み換え食品ラベルの法案に対し、父母会・消費者・健康環境団体などと協力し、遺伝子組み換え食品の表示義務要求を行う。

ドクターブロナーのソープ工場でのゼロ・エミッションへの取り組み

2014

ゼロ・エミッションへの取り組み

ドクターブロナーは、15年間で1,100%の成長を達成。ソープ生産を大規模工場に移し、生産・廃棄・消費に伴って発生する破棄物をゼロにするゼロ・エミッションを目指す。

ドクターブロナーの創設者であるエマニュエル・ブロナーの息子ラルフ

2015

ラルフ・ブロナー逝去

ドクターブロナーの心と魂とも言えるラルフ・ブロナーが逝去。愛を広げることが最優先、利益は二の次というミッションを守るよう、ドクターブロナーの社員たちに刺激を与え続けた。

ドクターブロナー設立70年周年・ソープづくり160周年

2018

創立70周年と
ソープづくり160周年

ドクターブロナー設立70周年と1858年から続く石けんメーカーとして5世代にわたるソープづくりの160周年を迎える。

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